あけおめです。
この記事はどちらかと言えば『神様になった日』を肯定したい人向けに書いたつもりです。
また当作品の良くない部分と、それに対する自分なりの擁護も書きません。あしからず。
あと要点だけをサクサク書いてしまいました。これは僕の文章が下手だからです、ごめんなさい。
佐藤ひなの慎ましさについて
この作品について考えた時に僕が最も心を動かされるのは、佐藤ひなが美しさを感じるほど慎ましいことです。
『神様になった日』という物語は彼女の半生を追う視点から感じて欲しいように作られている気がします。
佐藤ひなの「普通」
佐藤ひなは『ロゴス症候群』という病気を先天的に患っていて、端的に言って障害者でした。
あうあうあー(^q^)です。
歩くことも喋ることもままならない人生です。
)で知ったのですが、実の母親は佐藤ひなの介護に追われて自殺しちゃってたんですね。
再婚しても家族の介護の負担は大きく、興梠修一郎博士(じいじ)に預けられてしまいます。
(預けられることを「捨てる」と表現するのは浅慮かもしれませんが「8話 海を見に行く日」で両親が佐藤ひなに対して取った態度を見るに、その表現こそ適切じゃないでしょうか)
たぶん作者も、歩くことも喋ることもままならないということよりも、家族に捨てられたということを佐藤ひなのアイコニックな「不幸」として使っているような気がします。
youtu.be
佐藤ひなが捕まる前に得たもの
(余談:脚本制作術の超有名な本として、ブレイク・スナイダーという人の『SAVE THE CAT』というものがあるのですが、物語のテンプレートとして「魔法のランプ」というものがあります。よくある物語の展開パターンの1つです。)
佐藤ひなは、まず「素晴らしい夏」を手に入れました。
世界の終わりまでの30日間、成神陽太ほか掛け替えのない友人たちと最高の思い出を作ります。
言うまでもなく、佐藤ひなにとって、人生最上級の幸福な時間を得ることできたでしょう。
(また余談ですが、この部分にやたら尺を使ったのも作者から佐藤ひなへの愛の現れなんじゃないかなという気がします。(自分でもクサい解釈だとは思います)
佐藤ひなを真に愛しているのなら、彼女が愛した、彼女が命がけで獲得した夏の思い出は、克明に描かずにはいられません!)
「9話 神殺しの日」の表情
「素晴らしい夏」の後、終わるのは彼女一人の世界だったと悟ってからも、彼女は焦ったりはしませんでした。
むしろ置かれた状況を全て理解した時、真っ先に出た言葉は興梠修一郎博士(じいじ)への感謝です。
どうあがいても逃げられないと知っている彼女は、全てを諦めはしているものの、非常に満足気な表情をしていました。(9話20分50秒あたり参照)
この満足気な表情こそが、佐藤ひなの慎ましさを最も良く表現していて、この作品最大の魅力の一つである彼女の巨大な人格を感じさせてくれます。
なぜ佐藤ひなは満足気な表情をしているか
この時の佐藤ひなは全てを失うことを覚悟していたでしょう。
なのになぜ笑っていられるか。
それはひとえに、彼女が得た「素晴らしい夏」に死を覚悟してもお釣りが来るほど満足していたからなのではないでしょうか。
人はよく良いことがあった時に「もう死んでも良い」という表現を使いますが、彼女にとっての「素晴らしい夏」はまさにその究極系でした。
歩くことも喋ることもままならず、その上家族にも見放されていた少女が、30日だけとはいえ人生で最も価値のある時間を過ごすことができたのです。
彼女には、もうそれだけで十分だったのだと思います。その思いは12話において映画のメイキング映像として語られている部分も該当します。
佐藤ひなと一般人の違い
佐藤ひなは声帯が佐倉綾音だけど、僕らはできの悪いギロみたいな音がするという話ではないです。
僕らが「不幸」だと感じがちなことこそ、佐藤ひなにとっては「普通」なんですね。
そしてそれが、彼女の美しさを感じるほどの慎ましさを生んでいます。
僕らが仮に『神様になった日』で描かれる30日間を体験したとしても、じゃあそれで死んで良いかと言われれば「うーん」と悩んでしまうのではないでしょうか。(ここは人によるかもしれませんが、自分の感覚だと平均的に悩むような気がします)
しかし彼女は満足できるのです、それまでが「不幸」であったために。
というよりも、彼女がそれまで「不幸」であったという視点こそ、健康な一般人の、ある種押し付けがましい価値観なのではないでしょうか。
僕らが傲慢な人に嫌気を感じるのと真逆の感情を、彼女の慎ましさからは感じます。僕らの感覚を超越した巨大な人格を佐藤ひなは有していると、その表情からは感じさせてくれます。
(ともすれば、彼女を「不幸」だと感じるならば、そこに視聴者自身の傲慢も恥じるべきなのかもしれません)
繰り返しにはなりますが、『神様になった日』で自分が最も心を動かされるのは、この佐藤ひなの人格です。
最終的に彼女が得たもの
(よく生かしてくれましたね、「フェンリル」の女CEOさんのおかげなんでしょうか(そういう描写があったか忘れた))
歩くことも喋ることもままならないにしろ、生きてはいるし、成神陽太くんのおかげで「素晴らしい夏」を共に過ごした友人たちと末永く暮らしてゆくことができました。
(と解釈してよいでしょう)
もしかすると僕ら一般人的な感覚からしてみれば、佐藤ひなはあうあうあー(^q^)なままであることから、煮え切らない感情を覚えるのではないでしょうか。
「量子コンピュータ」があった時の方が彼女は幸せだったんだから、その時に比べて幸福度が下がってしまっているから、悲しいじゃないかと。
ごもっともだと思いますし、僕もそう感じます。
しかしながら彼女にとってはその状態が「普通」なんですよね。十数年間ずーっと不自由な暮らしをして、30日だけ「魔法」で幸せを得ていただけなんです。
それに今は前とは違って友人たちもいる、愛してくれる人がいる。
その幸福の価値たるや、劇的では無いにしろ「最高の夏」よりも上なのかもしれません。
『神様になった日』
先天的な病気で歩くことも喋ることもままならない、その上家族に捨てられてしまった少女が、
『神様になった』ことによって本来夢にも思わなかった、
文句なしに「最高の夏」と
生涯を共にしてくれる友人と、愛すべき人
その両方を得ることができました。
佐藤ひなから見た全体のストーリーラインを見ると、佐藤ひな良かったねぇと、僕は結構思います。