ぬるま湯の日記

思春期になってる

不自由人

 まず勘違いして欲しくないのが、これは政治的な話ではない。そう断るのは、今から書くのが三島由紀夫についてだからだ。それに彼の小説の話でもない。しかしそう長くないから見て欲しい。現実の友達にさえ、こんな話はそうできないから。

  いわんや、三島由紀夫とは迫力の男である。愛国の雄であり獣である。立て籠もりからの割腹自殺。彼の四十数年の人生は終始、余りにも劇的だ。また彼は世紀の文豪でもあり、頭も抜群に良い。僕は歴史に全く疎いが、それ故にこの平和な二○一八年においてさえ、彼については知れば知るほど鬼気迫るものがある。生きているだけで常に何かと戦っているような凄みがあるのだ。それはきっとあなた達にも想像が容易いと思う。

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 三島の来歴をインターネットで見ながら、僕はその格好良さにうっとりしていた。やがて、上の三島由紀夫と東大全共闘の動画に辿り着いた。
 東大全共闘というのは一九六八年ごろ始まった日本における各大学の学生運動の一つであり、東大当局が学生を不当に処分したことに端を発したものらしい。僕はこの時代の学生運動というものにやたらとインテリな雰囲気を感じており、実際に上の動画の学生たちのように思想や主義に関する崇高な問題提起だと思っていた。けれども学生運動全体として東大以外にも様々な大学で相当な人数が参加していることから、深淵な哲学や政治学社会学の問題ではなく、日常の不満を原動力にした生活に根付いたものなのかもしれないと認識を改めた。
 しかしながら、こと東大、少なくとも上の動画の中身は非常にハイレベルな議論がなされているように見える。ぜひとも時間があれば見て欲しい。名討論である。
 学生たちはみな戦地に赴く武士のように猛っていて、自分たちが世を変革するのだという激しい意気込みを感じられる。全共闘A、B、C、D、……と三島と討議を交わす学生たちが立ち代わり主張を述べるのだが、これまたみんなそれぞれやたらと特徴的で、どこか物語のワンシーンのようなコミカルである。僕のお気に入りは全共闘Cと全共闘Dだ。動画の後半によると全共闘Dはこの後自殺をしたらしい。学生運動当時の激しい感情を忘れ、余生をのうのうと生きる元学生が大半の中で彼のような最後はどこか美しさを感じてしまう。
 実は、ここまでの話は今日書きたいこととはあまり関係が無い。肝心のシーンは全共闘Cの主張、動画の5分45秒あたりからだ。
 この全共闘Cは非常にセクシーな男である。だらっと着た服に伸ばしっぱなしの髪、薄目でタバコを吸い吸い、笑みをたたえて三島の言葉に耳を傾ける。しかし時にほんの一瞬、三島から視線を外し真剣な顔になり思案する様子を見せる。これが非常に蠱惑的な所作なのだ。僕は生涯こうはできない。
 下が彼と三島のやりとりを抜き出したものである。

「あなたはだから日本人であるという限界を越えることはできなくなってしまうということでしょう」
「あぁできなくて良いんだよ」
「ああ良いわけですか」
「僕はね、日本人であって、日本人として生まれ日本人として死んでそれで良いんだよ。その限界を全然僕は抜けたいと思わない。僕自身」
「うん」
「だからまぁあなたから見れば可哀想だと思うだろうが」
「非常にそれは思いますよねぇ」
「しかし僕はやっぱり日本人である以上の、日本人以外でありたいとは思わない」

(中略)

(国籍というのは本来無いという話から)
「あなたは国籍が無いわけだろう? あなたは自由人として僕は尊敬する、それで良いよね。だけども僕はだね国籍を持って日本人であることを自分では退けられないと思っている。それは僕の宿命であるともう信じている。」
「それは一種の関係付でやられてるわけですよね。だから当然歴史にもやられちゃうわけだし。むしろいるということに」
「うん、そういうことに喜びを感じる。」
「幻想の中で?」
「幻想の中で」
……
というやり取りがあって、僕はこれが大変衝撃だった。三島の愛国に感銘を受けたわけではない。彼が自分を収める枠組みを知覚し、それが退けられないもので宿命を感じるということにである。
 ここからは時代が飛んで僕の話だ。
 昔から創作の非現実のような、日常と全く異なる新鮮なものが人一倍好きだった。そんな強い実感があったから、見たことが無いもの、その理屈が全く予想できないものを知覚することが、人生における最たる喜びであると確信していた。
 また同時に、知らずに生きるということに果てのない怖さも感じていた。最終的に僕の内側に無ければならないものが、ぽっかり抜け落ちてしまうような不完全さを感じ、肌感覚として恐れていた。これらの、全くの未知に対する知りたい好奇と知らない恐怖が僕の行動原理の滑らかな両輪だった。
 しからばそんな僕が目を向けるべきは枠であった。自身が存在している枠組みを知覚し、その内側にいる限り外部は必ず新鮮なはずであるから、外部こそが目指すべき宝島なのだ。そのごく当たり前のルールに二十年経ってやっと気がついた僕は、限りない欲求を満たす為に外側へ外側へと進行していった。
 しかしそれはすぐ頭打ちになった。ありていに言えば、対象が観測不可能な所に来てしまったのである。それは例えば、僕が大金持ちの生まれでないから上流階級の暮らしが分からんなどという次元ではなく、ファンタジーやSFの世界に自分が存在することは無いんだという夢想少年の域から、もっと遠くまで。
 僕はそこに至った時に辛抱たまらない不自由を感じたものである。国籍が本来無いものであるという全共闘Cを三島が自由人と称するように、枠組みの内側に甘んじるのはどうにも不自由な感じがするのだ。そして僕の向き合うべき枠組みはこの観測不可能性であり、それを全共闘の革新的思想に投影してこの動画を見ていたのだ。
 大分長くなってしまった。簡潔に終わらせよう。僕は未だに全共闘Cのように外へ外へと模索している。その方向性が間違っていると思ったことはこれまで一度も無い。しかし、けれども、三島由紀夫のように枠を越える必要を感じず、観測可能な世界の内側を愛しそれを宿命と捉えて死ぬ、そういう結末でも悪くないかもしれないと思ったのだ。

P.S.
『今書きたいやつの1章をアップするまでTwitterしないぞ』ってツイート、やっぱり無しでお願いします(笑)